昭和47年11月22日 朝の御理解
御神訓 一、「体の丈夫を願え。」
一、「体を作れ。何事も体がもとなり。」
健康を害します。所謂病気など致しますと、あただにどうぞ健康になります様に。健康になる、病気が治る様にと言うてまぁ願う。体の丈夫を願えと仰る事は、只今健康であると云う事。ね。只今どうも無いと云う事、それだけではなくて、愈々丈夫になる様に願わなければならない。願いだから続けなければいけないと云うのです。病気をした時だけ、どうぞ健康になります様にという願いじゃない。健康であると云う事ね。そしたら今日この健康であると云う事を、神様に心からお礼を申し上げる。
私だけではない。例えば家族中のものが、今日も健康でおかげを頂いておりますと云う事を、しっかりお礼を申し上げなければならない。ほんならお礼を申し上げただけではいけん。どうぞ今日もまた、愈々健康のおかげ。所謂体の丈夫を願えと愈々健康を、より有難いものにする為に、やはり願わなければいけんね。「体を作れ。何事も体がもとなりと。」ここに至ってまいりますと、もう愈々願わなければおられない事になり、同時に此処では、体を作れと仰るのですから、ね。
是は私共が精進しなければいけんのです。体を作れと云う事。ね。どうぞ健康のおかげを頂かせて下さい。体の丈夫をお願いしますと言いながら、ね。夜更かしはする又は大酒大食はする。ね。云うならばその健康に害する様な事を、いわば平気でやりながらそして体の丈夫を願ったって、是はおかげの頂けない事が分かりますね。体の丈夫を願うからにはです。ほんなら神様に、その事をお願いするからには、私自身も体を作れと仰る、その体を作る事に精進しなければいけません。ね。
例えばその体のための害になる物ね。そう云う様な物を平気で食したり、又は平気で行うたりしたのではもう是は、おかげをどうぞ下さいと言うほうが可笑しいぐらいですね。体の丈夫を願えと。だから体の丈夫を願う。願うからには私共が、ね。今健康だから願わんで良いと云う事は無いね。それには先ず今日健康でありましたと云う事。しかも私だけではなく、家族中の者が健康でありました事を、心からやはりお礼を申し上げなければいけん。ね。なら申し上げるだけではいけない。
ほんなら今日もまたどうぞ、健康のおかげを頂きます様にという、所謂願えと仰るのですから、願わにゃいけません。ね。お互いが風邪を引いた。お腹が痛む。何か病気をして初めてどうぞ、おかげ頂きます様にという願いじゃ駄目と言う事です。しかもならその日々健康であるということを、お礼を申し上げるということと同時に、ね。より丈夫な体にならせて頂く事を自分だけではない、家族中の者の事を願わなければならない。神様にお願いしよるけん、もう良かじゃいかん。
いうならお願いさせて頂きよるのですから、体を作れと言う所、ね。その作らせて頂く精進をしなければいけない。是りゃまぁどこが本当やらどれがどうと言う事は分かりませんよ。例えばほんなら、間食なら間食をしては、身体に害すると云う事でしたら、間食をしてはいけませんね。大食をする事が、身体に悪いと分からせて頂いたら大食をせずに、是はどちらがどうとは分かりませんけれども、腹八分が良いと云う事でありますなら、腹八分の精進をしなければいけません。
是はそれぞれのいわゆる精進です。自分の心の問題です。ね。そう云う例えば精進をせずして、体の丈夫を願ったって、それは願いが願いにならない。筋が通らんと思うです。そうでありましょう。ね。ほんならどうかある時、痛い痒いの時だけ願わんならん時と云う様な事でもいけないと云う事が分かります。もう日々体の丈夫を願わしてもらわにゃいけん。日々お礼を申し上げて行くと同時に、より丈夫な健康な身体を頂く事を、願うて行かなきゃいけん。
あのねそういう信心をさせて頂いておりますとね。健康の事だけじゃないです。もう全てがおかげになって来るのが、金光教の信心ですよ。自分だん今もう健康じゃけんで、そげんやあやあ言うてお願いせんでん良いと。と言う事じゃないです。それを本当にお礼をいう願いをし例えば、ほんなら体を作る事に精進すると云う事は、もう教えを守る事ですから、万事の上におかげになって来るです。
私は最近あの、阿倍野の先生の御教話を読ませて頂いて、もういよいよそうだなと思いますですね。もうどの御教話を頂きましてもね、もう当たり前の事を当たり前に。この合楽の場合は非常に、例えば御教えが高度だ。深い広いある意味で哲学的だと。まぁそういう新たな信心の、教祖の教えておられる事の素晴らしさに、ただ驚くばかりです。ね。昨日も教祖金光大神の、第一のいわゆる研究者であります。
金光しんせい先生。今ご病気で入院しおられるそうですが、そちらのご長男と、此処の上野先生が学院が同期であった。取りわけ心安うして頂いておったそうですから、御本部参拝すると必ず、あちらにご挨拶にも行きますし、色々とあちらでのお話も頂いて来る。前からも、何回もお父様がそうしてご研究、いわゆる金光様の今の金光様の、すぐ弟さんに当たられますですね。その研究資料と言った様な、合楽ではもうその教祖金光大神の、この教典だけに絞って、あの掘り下げて行っておられると云う様な事を聞いておられたらしいです。ですからあの何かの資料になるかも知れません。
実をいうたら、是は昨日頂きましたのは、やっぱり二時間ぐらい掛からにゃ聞かれんのですけれども、その一部を聞かせて頂いたんですが、あの一般信者には実を言うたら聞かせられない話。いわば学院の講師の先生方を対象としてお話になったお話。だからそれを今此処でこう発表するという意味じゃないですけれどもね。それかと言うて頂いて決して悪いと言う事ではありません。ね。教祖金光大神をもうあのこの教典なら教典。この教典を大変、研究勉強なさっておられます。
けどもそれをお話を頂かせて頂ながらです。まぁその後でみんなと話した事でしたけれども、こういう此処迄しか分からないと言う所をです。合楽ではもうその、いうなら答えと言うものが、全然出てない訳なんです。だから学院の先生方、此処迄は分かっときなさいよ。是から先は分からんとこう言うのです。所が合楽是が一つの問題であっても、一つの御教えであっても、合楽の場合はそれの深さが、どれだけあるやら広さがあるやら分からん事を、例えば二十数年間お互い聞いてきている。
ですから合楽の場合でいうなら、その時点でならすぐ答えが出ると云う事です。ね。まぁ例えて一例を申しますと、この教典からこの御教えだけは、もう取り除かなければいけないと云う様な御教えが幾つもある。けれどもそれはそういう風に言わずに、素直に頂くべきだという風に説明してあります。ですから頂きよってから、やっぱこりゃ本当に、本当にそうだろうかと言う感じがします。
ところが合楽の場合は、それをそういうじゃなくてから、それはもう絶対、教典の中になからなければいけないとして説いておるでしょうが。この中から一か条でも取り除く事は出来ない。例えて申しますと、神と神との身と思い知れよと言った様な、御神訓があります。それやら又は君の為なり国の為なり、と言った様な御神訓もあります。ね。ですから当時の国家の要求とでも申しましょうかね。いうならばそういう言うなら、忠君愛国の精神と言った様な物が、国のいわば中心になっておる訳ですから。
御教えにもそういう所謂君の為なり、国の為なりと言うごたる。今時国の為なり君の為なりと言う事は君と言う事は所謂、天皇陛下を指した物ですからね。だからそう云う様な御教えはもう、今の時代には、役に立たないと云う訳いけないと云う訳。ね。それで昨日の話の中に出て来るんですよ。で皆さんそれをどういう風に頂いておられますか。それもそんな御教えもちょいちょい、いわば此処では出て来るのですけれども。
例えば私共が一生懸命働かせて頂くと云う事は、確かに社会国家の為なんです。ね。私が沢山の財産を作ったりすると云う事は、もうそれは国家の財産ですから。もう国の為になってる訳ですよいうなら。ね。けれどもその君の為なりと言う事がその悪いという。教祖様はその君の為なんて云う事を、やはりこの君と言う字を使っておられる、ね。僕とか君とか言う、ね。
ですから私共が一生懸命働かして頂く事は、国の為になると同時に、君自身の為になるのだからと言う訳に、此処では解釈が付けられてある訳です。ね。だからその時代時代にですいわば即応出来るように、あの御教えと云うのはなっとると言う訳です。だからどういう時代になるか分からんけれども、どういう時代になっても、それをもう今の時代に要らんという御教えは、一つだってあるはずはないです。ね。
神と神との身と思い知れよと言う事は、いわゆる天地の親神様の、いうならば身体であると同時にです。ま神と言う事は天皇(すめらみこと)と云う事ですね。いわゆる天皇陛下のお体だと、だから一千五厘のはがき一枚で、いわば召集する事も出来られた時代なんです。天皇陛下の御為と言った様な事を言うておった。今時はそういう事を言うものは誰もおりはしません。と言うてほんなら、天皇陛下を軽蔑すると云う事でもない。やっぱり、国の中心としてですね。
やはり崇めもしなければならない、有難いと尊ばしても頂かねばなりませんけれども、そういう天皇陛下の御為なんて言ったって今頃は通用しない。ね。だから神も私共が信心しておると云う事は、教祖金光大神に帰依しておる事でしょうが。ね。神の為なりと言う事は、天地を指しておる。また次の神と言う事はいうなら、天皇陛下でも良ければ天照大神でもよければ、言うならば私共は教祖の神を、所謂教祖様に帰依をするという事は、もう命を捧げておるという意味と同じ事ですから。ね。
そういう解釈を付けて来ると、もうそれは、素晴らしい事になって来るのですけれども。その言葉、字句にとらわれて、こういう御教えは。だから、それでもそれを素直に受けて行くより他にはない。違ってはおるけれどもと言う様な表現では、本当に違っておる様にしか聞こえて来ない訳です。そう云う様なのが、いくらも出て来るんです。他の御教えの中にでも、それは、もっと、こういう深さがあるんだ。こういう広さがあるんだと云う事になるんです。
まぁたとえば、今日頂いておる体の丈夫を願え、体を作れ何事にも体が元なりと教えて下さる事なんかでもですね。今日頂いておりますと、体の丈夫を願わなければならんと言う事はもう、健康であっても願わねばおられないのが、私共だと。障子一重じゃままならぬ人の身なのだから、何時どういう病気をするじゃら分からんのだから。だから健康であっても、やはり、願わなければならない。ね。ほんなら願うからには、私共がです。願うからには、ね。願うだけの信心がなされなければならない。ね。
ほんならその願うだけでなくて、ほんなら身体そのものを大事にするという教えを守らなければいけない。同時に体を作れと仰せられるのですから、愈々体を作る為の精進をしなければならない。その精進をせずしてほんなら願ったって願いの筋が立たん。それはほんなら必ずしもほんなら身体の事だけかと言うとそうじゃない。その事を行じさせて頂く。当たり前の事を当たり前として行じる所に、教祖様の御教えを行ずる事になるから、万事の上のおかげになって来ると云うのですから大変な事なんですよ。
自分の体の事だけの上に、おかげを頂くだけではなくて、万事のおかげに繋がって来る訳です。ね。体を作れと云う事は、だから私共がです所謂出征させてもらうと。または運動させてもらうとか、ね。しかも体が元なりと仰るのですから、こらもう何をするにも、体が元である事は事実なんです。という風に今日は頂ましたがです。ほんならその御教えを例えば、合楽の場合は体の丈夫を願えと云う事は、いうならば心の丈夫を願えと云う事にも関連して来る訳なんです。
心と体肉体は伴うておるのですからね。心の健康な人はもう絶対、肉体も健康だという訳なんです。ね。ですからこの体の丈夫を願えと言う所を、心の丈夫を願えと云う事に、教えが深められてまいりますとです。ほんなら心の丈夫を願うための精進をしなければいけない。私共は日常の中に本当に腹の立つ問題やら、ね。いらいらする問題やらが、色々ある訳でしょう。それをほんなら心の糧にされると云う事。
それを心の上に頂かせてもらう。それが苦いものであっても、臭いものであってもです。ね。その苦いものを頂く事によって、いよいよ心の云うならば、胃腸が健全になる事だから、それを合掌して受けるという心の状態になれと云う事なんです。ね。身体にもやはり、食物のいうなら糧を取らなければならない様に、心にも糧を取らなければならない。それには美しい話良い話、有難い話を聞かせて頂くと云う事は、心の糧にそのままが心の糧になる事は、言うに及ばずであります。
けれどもそんならそういう、美しい話有難い話ばっかりじゃない。今言う様に腹の立つ話も聞く事がある。いわゆる苦い思いをする様な事を聞く様な場合でも、それを苦い思いをしたり辛い嫌な思いをしたのでは、そういう心ではおかげにならんのですから、次の体を作れと言う所はそういう精進の事です。はぁこの苦いこの苦い問題を、一つ心のセンブリでも頂きよると思うて、合掌して頂く所にです。
いよいよ心が健全になるのです。ね。心の糧というのは、美味しい物ばかりと云う事じゃない。栄養になると云うだけの物じゃない。ね。そこを有難く頂くという心が、心を健全にする事になり、ひいては身体を丈夫にする事にも繋がる訳なんです。ね。いわゆる体を作れ、何事にも体が元なりなんです。心を作れ、何事も心が元なりと言う事にもなる訳でしょうが。ね。
有難い有難いと、一切を有難い有難いで受けて行きゃ絶対、有難い事になって来るのです。ね。それを不平を言い不足を言い、ね。悩み苦しんでおる様な状態であったら、何時まで経っても、良い道は開けては参りません。そこでほんならこういう難儀な問題に直面しておるのでから、これがどうしてなら有難い心になれるかと言う所に教えがあるのです。思いが変わって来るのです。物の見方考え方が変わって来るのです。ね。久留米の初代の石橋先生じゃないですけれども、ね。
ご長男が頭がお病気のために、やはり普通ではなかった。その事を指摘してある時に桂先生に、いわゆる師匠である所の桂先生が、満座の中で「石橋さん、あんたんとこの息子は馬鹿じゃな」と仰った。もうそれこそ顔から火の出るごたる思いです。普通で言うならば。「いくら師匠でも、その一言は許されん」と、いきり立っても良い。例えば黙ってそれは言わなかったにしても、もうあぁいう事を言うたから、もう師匠を師匠と思わんと思うても普通である。
けれども石橋先生は其処の所をどう頂かれたかと言うと。「親先生、おかげで信心が出来ます」と仰った。「石橋さん、でかした」と言うて一番先に、杯をさされたというお話が残っております様にですね。そういう例えば腹の立つ問題。それこそ顔かが火の出る様な恥ずかしい思いをする様な問題であってすらも、そう云う事が事実であるから、それを、ね。何時も自分の信心の糧にしておられたと云う事が分かるでしょうが。だからもう、その場で、顔色一つ変えられなかった。
「親先生、おかげで信心が出来ます」桂先生が「石橋さん、でかした」そういう受け方が、本当の信心の受け方ぞという事なのです。「私が息子が馬鹿じゃろが、どうあるですか」と。「ああたには、お世話にならんもんじゃけ」と言うて詰め寄ったって良い訳なんです。だからそれではね、もうおかげがそこまでで、おかげが受けられない事になるのです、そういう心の状態では。
そこでどういうほんならね、今言う心の糧になるという事が、有難い話を聞くというだけではなくて、腹の立つ話も聞かせて頂いてです。それによっていよいよ心を鍛えて行くと云う事です。ね。いわゆる身体の運動なら運動をしてでも、その体の丈夫を願わせて頂く様な物なんでしょうが。ね。体を作れと仰っておられます。ね。だから心を作らにゃいけん。あぁ何時も有難い勿体ない話ばっかり聞いて、有難い有難い。成程有難い。けれども世の中はそう甘いものじゃないのです。
それこそ目の前が真っ黒なる様な事が起こったり、もうそれこそかんかん頭に来る様な事を聞いたりする様な事もあるのです。だからそういう時にです。それを祈って心を鍛うと云う事になるわけです。ね。そしてもうその場で即座にです。おかげで信心が出来ますと云う様な事にならなければならんのじゃないでしょうか。ね。そういう頂き方、ね。いわゆる、何をするにも体が元なりである様に、私共はおかげを頂くと云う事は、いわゆる心が元なりという事ですから、ね。
だからこそ天地書附なんですね。生神金光大神天地金乃神一心に願う事は、どうぞ私の心の中に和らぎ喜ぶ心ですね、和賀心を頂かせて下さいと願え。おかげは、その和賀心にあるんだと仰ってる。おかげは、只今申します様に、おかげで信心が出来ますと云う様な心に、おかげがあるんだと仰っておられる。だからそういう心を頂かせて頂くために、お互いが精進しておる訳で御座います。ね。ですからそう云う事と同時にです。ほんなら今日の場合は、一つ、直接、ね。
体を作れと云う事。また体の丈夫を願えと云う事。私共は早速今日此の様に元気であると云う事をです。神様にお礼を申し上げると同時に、今日この身体を害する様な不節制な事は致しませんと言う様な信心が、体を作れと云う事になるのであり。またよしほんならどう云う様な、嫌いな食べ物がです、そこに目の前に出ても、それを食べなければならない時には、一つ臭いけれども辛いけれども辛抱して頂くという事になる時にですね。それが苦い物であってもです。
それがセンブリの役をするのであり、いわば臭いニンニクの役を心の中で、そういう働きが起こって来る訳なんです。だから心はいよいよ大きくなる。心はいよいよ健全になるね。どんな事何を食べても、当たらんというおかげになって来る。どのような問題が起こっても、それを平気で受けられる。いや平気所ではない有難く受けられる信心がそこに生まれて来る。ね。
成程おかげが受けられるという事になるのです。それが元なのですからね。ただ自分の心を改めようともせず、磨こうともせずして、どうぞおかげ下さいおかげ下さいと云う事では筋が立たんのだ。どうぞ体の丈夫を願えと仰るから、どうぞどうぞ、今日も身体が元気になります様にと言うて願うただけじゃいけんのだね。願うからには体を作れと仰る、その精進をしなければです。いわゆる何事にも体が元なりと。どう云う様な場合であってもおかげは、自分の心の元なのだあるからその元である所の身体。
いわゆる、その元である所の心と云う物を、如何に大事に育てて行くと云うか。心にいわゆる、有難い家庭を与えて行かなければならないかと言う事が分かりますね。今日は皆さん、そういう風に頂いたんですけれども、まぁここのお言葉に現れておる通り、体の丈夫を願え。体を作れ何事も体がもとなりという、その事だけでも良いから健康の上の事だけでも良いから、それを一つ守る気になってご覧なさい。それは教祖様のお言葉を守る事になるから、一切のおかげに繋がって来ると云う事になる。
私は阿倍野の先生のお話を頂いておって、どの御教えを頂いても、その様な言うならば平易な事をです平易に説いておられます。それでそれこそ本当にびっくりする様なおかげをみんなが頂いております。ね。合楽はそれにもう一つ深さ広さと云う様な物を説きますけれども、それが耳が肥えて言うなら、詳しゅうなっただけでは、なぁにもなりません。ね。ですからその平易な所の御教えを、本当に血に肉にさせて頂いて。
しかも是にはこういう深さやら、広さがあるんだと分かって行きゃいよいよ、その信心のいうならば、親身と云う物は、もっと尊いものになって来る。それは例えば井戸の水がです、ね。二間か三間ぐらいの所から出て来る水と、十五件も掘った所から出て来る水と言うたら、同じ水であってもその水のいうならば、夏は氷の様に冷たい。冬はお湯の様に暖かいという水。浅いほうのだったらどうですか。夏は生ぬうるか。冬は冷たい。同じ水であってもその様に違います。ね。
合楽で信心を深めておると云う事は、そういう意味合いにおいてです。愈々深い信心のいわゆる、新味を味わう事が出来る。というてならそれを味わうただけじゃ出来ん。ね。私共がその教えそのものをです。私共の血に肉にしなければ、所謂おかげには繋がらないと云う事をです。私は是から阿倍野の信心が、合楽の中にぐいぐい入って来るおかげを頂かにゃならん。また神様がそういう働きがあっておる。ね。昨日一昨日でしたか、伊万里の竹内先生が、東京へ出張された。
帰りに阿倍野に私が、この頃、安部の阿倍野と云ってる物ですから、大阪で下車して阿倍野教会にお参りしておられる。だからその報告によられた。丁度お昼ちょっと前ぐらいだった一昨日。ね。所がそげん言いよる所へ、高橋さんの奥さんが、高橋さんを迎えに見えられた。そしてあの時に記念撮影してあった写真が出来ましたからといって、持って来らっしゃった。そげん言いよる所が、今阿倍野から小包が着きましたというてから、家内が持ってきました。
大きなこの五十年の記念祭の記念品と、それから今読ませて頂いておるご本を二冊、その送って来ておる。たったそこへ十分か十五分の間に、阿倍野、阿倍野、阿倍野と言う働きが、そこにあるという事は、ただ偶然の一致などとは思われないでしょう。如何に阿倍野の信心が、合楽の中にぐいぐい入り込んで来よるかと云う事が分かるでしょう。入り込んで来よっても、それを頂こうとしなかったら、おかげにはならんのです。ほんなら、私が、今日申しました所の前半の所をです、ね。
体の丈夫を願え。または体を作れと仰るから。本当にそれを、願うという事になり、お礼を申し上げると云う事になり、作ると云う事に精進すると云う事だけでです。教祖の御教えを行ずる事ですから、体は勿論のこと、全てのおかげに繋がると云う事です。私は今度阿倍野の先生の御教話の、沢山の語教話が出ておりますが、そのどの御教話を取ってもです。今申します様にもう実に簡単な事で、それを行じさせておられるから、おかげになっとるです。ね。合楽の場合は行じさせきっていない訳です。
詳しゅうある。ね。信心が反対にえらいこう、その何と言うですか高度な信心ちゃそげん割り切って良かじゃろうかと言うごと、ドライなところはある。けれども自分の心は助かるかも知れませんよそれで。例えていうならばです。悪い事しとっても、それを割り切った考え方するなら、自分な助かって行くです。けれども絶対おかげにゃ繋がらんですそれでは。ね。ですからあの所謂、合楽の信心の例えば深さ広さの中にね。
今阿倍野であの、先生がお説きになっておられる様にです。本当に金光大神の教えを頂く。所謂御道の信者としてはもう、当然の事当たり前の事が、合楽のご信心にゃ出来てないという事ですね。その当たり前の事を当たり前に行じて、おかげを受けなきゃならない。そして愈々信心の深さ、広さに触れて行って、さっき申します様に、愈々夏は氷の様に冷たい、冬はお湯の様に暖かい。同じ水でもですそういう味わいを味あわせて頂きたいとと思うのです。ね。
どうぞ、おかげ頂かにゃいけません。